ファウスト・コッピが1949年に達成したジロとツールのダブルツールは、彼のキャリアだけでなくロードレースの長い歴史を代表する金字塔として知られています。ジロで彼はロードレースというスポーツを再定義する走りを見せました。アルプス山脈を代表する合計5つの峠を繋いだクーネオ〜ピネローロのステージはロードレース史上最も厳しいものだったと言われています。フィニッシュまで残り192kmという途方もない距離を残して、ファウストはそれまでの慣習に(そして明らかに倫理にも)反してアタックしたのです。そしてツールでは、マイヨジョーヌを着るフィオレンツォ・マーニから32分もの遅れを被った状態でピレネーに到着。そこでファウストはマーニだけではなくライバル全員を置き去りにする驚異的なパフォーマンスを発揮します。山岳ステージでは向かうところ敵なし。そんなファウストはナンシーの個人タイムトライアルで宿敵ジーノ・バルタリに7分差をつける力走を披露し、自身初の総合優勝を掴んだのです。同じイタリア出身のファウストとジーノの一騎打ちは、1950年のジロで再び繰り返されることになりました。その年、パリ〜ルーベとラ・フレーシュ・ワロンヌを制していたコッピと、ミラノ〜サンレモで圧勝したバルタリ。そこで活躍したのが、今回の話の主役です。
1934年のジロ総合優勝者レアルコ・グエッラは地元で小さな自転車工房を構えていました。ビジネスが成功していた訳ではありませんでしたが、彼はプロモーションにおけるジロの価値を理解していたのです。そこで彼は低予算のチームを組織して、フランス人選手のマルセル・デュポンをエースに立てることになりました。前年度のツールで、デュポンはコッピから40分遅れの総合5位でフィニッシュ。周囲の予想通り、ジロでデュポンは思うような走りができずに低迷します。そんな中、スイス生まれのグレガーリ(イタリア語でアシスト選手)が躍進し、ロードレースの常識を覆して見せます。
チューリッヒ出身のユーゴ・コブレ、25歳。すでに6日間レーサーとして、個人追い抜き選手として頭角を現していましたが、ロードレーサーとしては鳴かず飛ばずでした。ツール・ド・ロマンディやツール・ド・スイスでも活躍することになる彼は、エレガントなライディングスタイルが特徴で、天賦の才を感じさせました。しかしグランツールは初出場であり、トップ選手と渡り合うには経験が絶対的に足りていないと誰もが思っていました。背が高く金髪で、痛々しいほど美しい顔立ちのコブレは、岩のようなステージレーサーの典型とは一線を画していました。彼はバルタリが所属する伝統チームでアシスト役を買って出たものの、ジーノのお眼鏡にはかなわず。さらに相次ぐ怪我によりレース欠場が続いた彼は、極限まで追い込む術をまるで知っていないようでした。コブレは常に取り乱すことなく冷静で、優美さをまとった走りに徹する男でした。しかしバルタリによる評価は低く、さらにバルタリブランドのバイクをスイスで販売していなかったことも逆風になりました。コブレのレベルの選手はイタリアに山のようにいるというのがバルタリの見解。必ずしもチームには必要ないと判断したのです。しかし結果的にそれが仇となります。
そんなバルタリの反論に腹を立てたコブレは、ジロ1週間前のレースで自身の能力の高さを証明しようとしていました。コブレはツール・ド・ロマンディで無双の強さを見せましたが、最終日のメカトラによって総合優勝のチャンスを失ってしまいます。彼とロードレースの相性の良さは明らかでした。しかし、ロマンディはロマンディであり、ジロはジロ。3週間のステージレースは全くの別物であるとするのが一般的な見解でした。
親愛なるユーゴへ
スイスサイクリングが栄華を誇った黄金期の名選手とレースの話。
08 June 2022コルサローザ(ジロの愛称)の第6ステージは、北イタリアのトリノからスイスに入国してロカルノまで走る220km。この日も逃げが先行し、マリアローザ候補たちを含むメイン集団が15分遅れで追走する展開でした。平穏な逃げの日。しかしマッジョーレ湖が近づくとコブレは突如加速。不意を突くロングアタックを仕掛けます。ライバルたちは反応することなく、そこからコブレの独走が始まりました。タイムトライアル能力を遺憾なく発揮し、なんと独走でステージ優勝を飾って見せたのです。誰もが予想していない規格外の逃げ。当然のことながらまさか彼が2日後に再び奇襲を仕掛け、ヴィチェンツァまで逃げ切りを図るとは誰も予想していませんでした。二の舞はゴメンだとライバルたちは猛追を仕掛けたものの、コブレの背中は最後まで見えず。コブレは再びステージ優勝を飾ります。さらに、チューリッヒのパン屋が生んだ優しい巨人は、そこでジロ・ディタリアを象徴するマリアローザに初めて袖を通したのです。
才能の真偽を確かめるような、コブレにとっての初めてのグランツール。おそらく山岳ステージで失速するだろう、いや、しないかもしれない。イタリアの世論は揺れていました。何しろ1950年は25年に1度の『ヨベルの年』であり、ジロの総合優勝者はローマ教皇への謁見が許される年だったのです。ファウスト・コッピかジーノ・バルタリのどちらが謁見するのか、そればかりが取り沙汰されていました。そんなイタリアの期待をよそに、2人のチャンピオンは自滅してしまいます。コッピは落車により早々にリタイア。レースをリードするコブレを蹴落としたいというバルタリの目論みも空振りに終わってしまいました。ドロミテの山々に響くイタリアのファンの声援もバルタリには届かず。コブレは崩れる素振りを見せることなくバチカンまで走り切ったのです。コブレはスイス人選手として初となるグランツール制覇を達成。さらにジロを制した初めての海外出身選手となりました。開催国イタリアにとっては悪夢のような結果。しかしそれは時代の流れが変わったことの証明でもありました。すでにスイスは数多くの優秀な選手を輩出し、コブレはその中の一人でした。それ以後、コッピの最大のライバルは、35歳の古豪バルタリではなく、新鋭コブレであることが歴然となったのです。
優しく寛大なコブレは、コッピこそが彼のアイドルであり、インスピレーションの塊であることを公言していました。ジロ終了後にコブレがツール・ド・スイスで総合優勝を飾ると、当然コッピとコブレの対比が行われるようになります。両者ともに穏やかな語り口で、それぞれ生まれつきの品位を持っていました。それまでスイス人がスポーツ界のヒーローになった前例がなく、誰もコブレのようなライダーを見たことがありませんでした。突然、伝統国のイタリアでもフランスでもなく、小国スイスが台頭。コブレの眩い輝きと映画スターのような美貌に魅了されたのです。
当時、雑誌の出版業界はかつてないほどの成長を見せていました。一般的なヨーロッパ人はスポーツ選手たちのプライベートな生活や恋愛事情といったネタの虜に。コッピとコブレほど最高のネタはなかったのです。ロードレースのみならず、スポーツ界全体がこの新しいライバル関係に注視していました。その2人が1951年ツールで再び衝突するとわかると、何百万人というスポーツファンが色めき立ったのです。
そのツールの開幕まで5日というタイミングで、ファウスト・コッピのビアンキチームは地元レースに出場していました。ジロ・デル・ピエモンテでは勝ったことがなく、アルプスを越えてフランスに向かう前に一花咲かせたいと願っていたコッピ。しかしフィニッシュに向けてプロトンがトリノ市内になだれ込んだ時、彼の弟セルセがトラムの線路にタイヤを取られて落車してしまいます。落車時に頭を打ったセルセでしたが、再びバイクに跨って自力でフィニッシュ。しかしホテルに帰着後に彼は頭痛を訴え、病院への搬送されます。その夜、セルセは兄ファウストに抱きかかえられながら息を引き取りました。そこで負った心の傷はコッピの人生に大きく影響することになります。セルセはカンピオニッシモ(コッピの愛称)の心の拠りどころであり、右腕とも言える存在でした。そんな大切な存在を失い、バラバラの状態でファウスト・コッピはツールの開幕を迎えることになったのです。
アジャンにフィニッシュする平坦ステージでコブレは偉業とも言える走りを披露します。ツールの歴史上最も勇敢とも言われる独走を敢行したのです。熟れた苺を思わせるスイスナショナルチームの赤ジャージに身を包んだコブレは、フィニッシュまで実に138kmもの距離を残してアタック。誰が見てもナンセンスな失策でしたが、彼は猛烈な勢いで追い上げるイタリアやオランダ、フランス、ベルギーの隊列を振り切って独走勝利を果たします。それまでの慣習にとらわれない走り。同時にロードレースのルールを再定義する力を持っていました。プロトンの選手たちが真夏の暑さに音を上げる中でも、コブレはいつでもクールに、フランスのバカンスを楽しんでいるかのようでした。世界で最も過酷なスポーツというロードレースの謳い文句に反するように、コブレだけが快適な空気をまとっていました。士気を高められずにいたコッピはモンペリエまでのトランジションステージで失速。そこからレースは大名行列のような進行になります。ファウストを動揺させるようにユーゴはステージ5勝を飾り、22分もの大差をつけてマイヨジョーヌを獲得したのです。
当時、アドニス(美男子の象徴)こそがロードレースにおけるゼウス(全知全能の神)的な存在でした。レース後のインタビューを前に、コブレは顔を洗ってオーデコロンを振りかけたものです。さらに櫛で髪を整えるのが常でした。身支度こそがスマートに見せる秘訣だったと彼は後に回想しています。驚くことに、フランスが彼に夢中になりました。そればかりか、ヨーロッパ中の女性たちがロードレースに興味を持つきっかけにもなったのです。フランスのあるジャーナリストは、コブレを『ペダルゥー・ド・シャーム(魅惑のサイクリスト)』と表現。70年経った今も、その感覚はロードレースに根付いています。
サイクリストとしてのコブレの天賦の才は誰もが認めるところで、コッピの低迷も手伝って、その後の彼の活躍は明々白々でした。世紀の一戦は実現せず、さらに翌年も両者は揃わずに持ち越しになります。ジロで調子を上げたコブレはツール・ド・スイスでも活躍。しかし勝利確実と言われた個人タイムトライアルで失速してしまいます。そこで彼が発症した気管支炎は、スイス自転車競技連盟の医師による注射によって悪化したと言われています。そこから、かつてのような輝きを取り戻すための戦いが始まりました。コブレはツール・ド・スイス後に十分回復することができずにツールを欠場。そこでコッピはダブルツールを達成することになります。ファウストは荘厳な存在でしたが、スポーツマンとしてのパフォーマンスは幾分退屈なものでした。
一方、貪欲な姿勢を崩さないコブレは這い上がり、1953年までにコッピに再び肩を並べるようになります。その年のジロ開幕時、コブレはいつもより3kg体重が重く、コッピは33歳のベテランに。両者ともに最盛期は過ぎていましたが、それでもなお他の選手とは別格でした。ジロで海外出身者として扱われるコブレは様々な問題を克服する必要がありました。プロトン全体に味方を作っていたコッピに対してコブレはよそ者。スイス人選手1人でイタリア人選手60人に立ち向かうようなものでした。それでもコッピはコブレを振るい落とすことができず、コブレがマリアローザを着た状態で最後のドロミテステージへ。英雄たちがしのぎを削るレース展開のまま、勝負はステルヴィオ峠での決闘に委ねられることになったのです。
そんな重要なステージのスタート前に、両者は協定を結びました。2人がステルヴィオ峠を揃って登り、スプリント力のあるコブレがステージ優勝をコッピに譲り、その見返りとして2度目のジロ総合優勝を手に入れるというもの。コッピは表彰台で受け取るステージ優勝の花束を愛するジュリア・オッキーニに渡すという筋書きだったのです。しかしいざレースが始まると、コッピのレース勘が冴え渡ってしまいます。ステルヴィオ峠でコッピがアタックを仕掛けると、動揺を隠せないコブレは遅れてしまったのです。さらに下りでコブレはパンク。そうしてコブレの2度目のタイトルが失われてしまいました。コッピの裏切りは、彼の心を蝕みました。ジロ後にコッピとタッグを組んでトラックレースを走るという契約をコブレは破棄。その理由を問われたコブレは「ファウストに聞けばいい」と答えるだけでした。
この象徴的なエピソードは、両者の違いを如実に表すものだと言われています。コッピは人当たりの良い人物で、プロロードレースの仕組みを理解していました。一方のコブレは才能に溢れながらも、コッピと比べるとアマチュアだったのです。彼はロードバイクに乗るのが得意であり、好きでした。しかし必ず勝ちたいというプロ選手に必要な渇望に欠けていました。特にファウストと友人であると信じていた彼は、裏切り行為を受け入れることができなかったのです。彼にとって単なるロードレースというスポーツで、人間関係を崩すなんてことは信じられませんでした。
翌年、ユーゴはジロでエースの座をチームメイトに託しました。彼の良き友人でありドメスティーク(アシスト選手)だったカルロ・クレリチに逃げを打たせ、30分のリードを築かせます。作戦通りクレリチは赤いスイスジャージからマリアローザに衣替え。それを終着地ミラノまでキープしてのけました。絶対的な存在であったコッピやバルタリにとって、エースの座を譲るなんてことは到底考えられないことでした。しかしコブレにとってそれは自然なことでした。そしてクレリチの勝利を心から祝福し、ともに喜んだのです。
当時のサイクリストの生活は決まって慎ましいものでしたが、世界中のあちこちを旅行するのがコブレ流でした。彼は思いつくとすぐ旅に出かけ、ハリウッドで遊んでいたと思えば中産階級のモデルと結婚し、当時まだ禁欲的だったチューリッヒで巨大なアメ車を乗り回していました。ジョン・コルトレーンやディジー・ガレスピーといった音楽を好み、ダボスに移り住んでセレブ生活を満喫。スイス人にとっては珍しく、財布の紐は緩みっぱなしでした。彼は銀行に口座を開設することを拒み、持ち金をスーツケースに入れて保管(空き巣で全て失うことになります)。決して『ノー』と言えない性格だったことも災いしました。アカプルコへの豪華旅行中の行為が原因で性感染症にも罹りました。やがて負債を抱え、金銭的な窮地にも陥ったとも言われています。コッピとの世紀の一戦は実現せず、コブレはツールを完走することもできず、30歳の誕生日を前に完全に燃え尽きてしまいました。
引退時、彼の貯蓄はゼロでした。ベネズエラで急成長中だった自動車産業で働くために彼はカラカスに引っ越しましたが、悲惨な財政難にあったことが明らかになっています。2年後にスイスに戻った彼は文字通り一文なしで、破産状態でした。今や『ペダルゥー・ド・シャーム』と謳われた青年は髪を失い、体重を増やし、鬱に悩まされていました。借金を抱え、子供もおらず、妻にも見放されたコブレは、39歳で自殺を図るに至ります。彼のアイドルであるコッピと同様に、彼の人生は悲劇的なものでした。そして、彼らはサイクリングの歴史の中で最も謎めいたチャンピオンのままです。
スイスでは、フランスのようにスポーツマンをアイドル化することなく、何がなんでもイタリアのようにスポーツマンを神聖化することもありません。スイス人は冷静さが特徴で、そしてもちろん彼らにとってスポーツはただのスポーツです。ユーゴ・コブレは母国スイスでも忘れられた存在です。しかし彼の偉業は歴史に刻まれています。多かれ少なかれ、歴史上最も偉大なサイクリストと称されるファウスト・コッピと同等の活躍を見せたコブレ。
主観的な印象ですが、彼らの存在はロードレースの黄金期の象徴です。しかし、第二次世界大戦直後の10年間、ヨーロッパがロードレースというスポーツに夢中になっていたことに反論の余地はありません。そしてスイスがロードレース界で最も幅を利かせていた時代でもありました。黄金時代の先鋒ユーゴ・コブレはまごうことなきスーパースターです。
彼の生きた時代に思いを馳せて。